23日、ギンズバーグ判事の棺が最高裁判所の前に安置され、多くの人が訪れ、その死を悼みました。ギンズバーグ判事の棺を一目見ようとたくさんの人が集まり、2時間待ちの行列となりました。最高裁入り口に運ばれた棺は、25日に議会に移動します。国のために尽くした公人として、 議会に遺体が安置される女性は、ギンズバーグ判事が初めてです。 メリーランド州から弔問の女性は「私が若い頃の70年代、女性はクレジットカードや銀行口座を持てませんでした。彼女は女性のためだけでなく、市民全員の権利のために戦いました。」とギンズバーグ判事が成し遂げた功績を称えました。
ギンズバーグ判事は、ニューヨーク市出身で、1950年代にニューヨークのコロンビア大学法学部を主席で卒業。しかし、当時は、女性というだけで弁護士として就職は難しいものでした。ギンズバーグ判事は当時のことを「ニューヨークのどの法律事務所も弁護士として受け入れてくれませんでした 。」と語っています。その後、1970年代にACLU=アメリカ自由人権協会で女性の権利プロジェクトに携わり、雇用や社会福祉など、男女間の不平等を異議を唱え、弁護士として最高裁裁判にも挑みました。1993年に当時のクリントン大統領により指名を受け、史上2人目の女性最高裁判事として、27年以上に渡りをその職を務めあげました。最高裁でギンズバーグ判事が主導した判例で社会的に大きな影響を与えたものは多くありますがその一つは、男子校だった軍事大学、バージニア州立軍事学校に対し女性の入学を許可しないのは違憲だとした裁判です。ギンズバーグ判事は「女性に閉ざされていた扉が開きました、未来はよい方向に進むでしょう。」と語っています。
また、最高裁判事として、同性婚や妊娠中絶の権利を支持するリベラルな立場で、様々な判例に関わりました。判決に対する賛同だけではなく、強烈な反対意見を述べ、若者の心を掴み、ラッパーの名前とルース・ベーダー・ギンズバーグの頭文字「RBG」を合わせ、Notorious RBG「悪名高いRBG」という異名で親しまれました。まるでロックスターのような人気を博したのはギンズバーグ氏が80代になってからでした。